看板絵の思い出

僕が少年期を過ごした北の街では6月15日の夏祭りの日から、街中の中学生、高校生が一斉にそれまで着ていた黒い冬の制服から白い夏の服装に着替える。 

 華やかに山車や稚児行列が練り歩く表通りとは別に、街中を流れる河の上には丸太とムシロで組まれたサーカスや見世物の仮設小屋がたちならび、年に1度だけの刺激的な「悪所」が出現する。子供たちはその前の人混みを胸をどきどきさせながら、もみくちゃになって通り抜けるのだ。
 
 それらの見世物の中で僕にとって最も衝撃的だったのが、子供に人気のあるサーカスやオートバイの曲乗り(サイカホール)ではなく「医学の驚異・犬娘」という因果物の看板絵だった。布に泥絵具で写実的に描かれた3枚組の絵は、おぞましい題材ながらも妙に懐かしい雰囲気をもっていた。

  最初の1枚にはいかにも因業そうな老婆が病院の診察室で、白衣を着た医師達に向かって何事か熱心に話し込んでいる。老婆の後ろには和服姿の美しい未亡人風の若い女が、哀しげに目を伏せて座っている。

 次の絵は手術室で、手術台の上には麻酔でもかけられたのか、目をとじた例の若い女が寝かされており、マスクをして手術着を着た医師たちが周囲を取り囲んで寝顔をのぞきこんでいる。

 最後の1枚ではついに手術が終わったのか、オールドファッションの大きな木綿のズロース一枚の女が手術台の上で四っん這いになっているのだが、その両腕と両脚は並の二分の一ほどに詰められているのだ。昔の婦人雑誌の表紙絵のような髪型をした上品な瓜実型の顔立ちと、半裸で犬のように立っている異様な肢体とのミスマッチな女の姿が、本来見てはいけないものを見てしまったのかもしれないという強烈なショックで僕の心に焼き付いてしまった。

 呼び込み役の中年女が窓のように一カ所だけあいた仮壁の穴の「あおり幕」を持ち上げると、派手な花柄の振り袖を着た女の後ろ姿がちらりと覗ける。口上にうながされてするすると着物を脱ぐと、白い背中と確かにアンバランスに短く可愛い両腕が見える。そして呼び込みの口上が、何とも露骨に僕の幼い欲情を煽りたてるのだ。
「そーらこれからが良いところ。今から花恥ずかしいこの娘が、いよいよ裸になっての体のお調べだよ。さあ、お客様の目の前でスッポンポンの丸裸、全部脱いで隅からから隅までよーく皆様に見てもらいなさい。ほらほらほらほら、パンツもとって四つん這いで、舞台の端から端までぐるーりぐるりとまわっているよ。こんなあさましい姿を哀れと思ったらお客さん。よく見てやって末代までも語り伝えてやってください。お代は見てのお帰りです。○○ちゃんやーい。今度は逆回りだよ。ほらぐるーりぐるりと・・・・」

 ムシロの奥には僕たちの日常とは違う時間が流れていて、母の胎内の薄闇の記憶のような、戦慄と懐かしさにみちた異形の世界があるようだった。もちろん小学生の僕が中に入ることなど出来はしない。たちまち父親に手をひかれて通り過ぎてしまったのだが、この時に看板絵しか見られなかったからこそ、そのまがまがしい絵の印象は時とともに増幅されされて何時しか僕のセクシャルなコア・イメージになっていった。

 きっとあの瞬間、世界は一枚のあおり幕を中心にして大きく反転し、僕はムシロの内側に取り込まれてしまったのだろう。それから三十年あまりを過ぎた今でも、僕は「犬にされた女」をモチーフにしたSM画を描きつづけているのだから。
室井亜砂二
初出「GAZETTE」 収録「首輪をつけたビーナス」


後記
上の絵は昔の記憶で描いたものですが、オリジナルの絵はカルロス山崎氏の見世物看板絵のコレクション写真集「オール見世物」(仮説出版珍奇世界社)で、モノクロ写真ですが見ることができます。犬娘(だるま娘、牛女・・・)の太夫、ナミさんは残念ながら2年前に亡くなりました。今では残る見世物小屋も、日本で2つだけになってしまいました。(1998年・現在)
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