哀犬記



犬が飼い主を見上げるときの、あの真剣なまなざしを思うと、胸が痛くなる。あなたは今まで、あれほど思いのこもった目で異性に見つめられたことが何度あっただろうか。

 言葉という伝達手段をもたない獣の目は、人間の饒舌をこえて、いつも一期一会のかなしさを真っ直ぐに訴えてくる。だからそんな、犬のような女性がいたとしたら、どれほど愛しいものか、直喩を字義どおりに解釈してしまい、次々と怪物を作りだした中世の画家達のように、わたしは「犬になった女」を夢想する。 

 首輪をつけ、裸のお尻を振り立てて惨めに地面を這いまわり、恥ずかしい珍芸で、必死に飼い主に媚びをうる。人間の空虚な言葉は禁じられ、「女犬」のコミニケーションは、目の色と喉の奥からもらす鳴き声、そして滑稽に打ち振る尻尾だけだ。投げられた棒切れを口にくわえて駆け戻り、主人の靴先に頬擦りをする。これは尊厳をもった人間ならけっしてやってはいけない不様なしぐさだ。 

 自意識をすべて捨て去り、身も心も一匹の犬になったとき、女は真の聖なる者として逆に主人である男を圧倒するだろう。O嬢もこうして梟になったのだ。 

 文章にしてみると本当にとんでもないイメージだが、私だって戦後民主主義教育をうけて育った世代だ。差別はいけない、男女は平等。他人の気持ちを考えて、嫌がることはさせないこと。そんな建て前は嫌というほど知っている。しかし人類がいまだかって真に自由で平等だった時はない。教育や正義を大義名分にして、差別や暴力を狡猾に楽しんできたのだ。(犯罪者と英雄を分けるのは、洗練度の差でしかない)  
 そして無理に掲げた近代的建て前は潜在意識の沼の底で、真反対の衝動をそだてる。 
 イデオロギーでは人のリビドゥは動かない。
 
それを動かすのは、生け贄の甘美な血の匂いと、異形の神々への畏怖に満ちた、内なる太古の闇なのだ。ここでは昼間の価値観は逆転し、マイナスの秩序で並べ変えられる。 

 不具者がもっとも美しく、恐怖が一番懐かしい。
 
だから女の苦痛と屈辱はそのまま責め手のなかで増幅されて、責め手自身をさいなむのだ。男は女をとおして自分自身を汚している。責め手の快感は、責められている女の「照り映え」でしかない。 

 世間が倒錯者にもつ最も大きな誤解は、彼ら(倒錯者)には道徳心が欠如していて、肉欲が異常に強いと思っている点だ。私にもし「自称正常人」と違った面があるとしたら、それは過剰な羞恥心と、女性の精神性への過大な尊敬心だろう。私から見ると恋愛への憧れをかたり、人を集めて結婚披露宴をひらく正常人こそが色情狂や露出狂に思える。 

 私の不幸は、思春期に目覚めた異性への思慕を、恋愛至上主義で美化出来るほどの楽天家ではなかった事だ。私は聖職者のように肉欲を抑圧し、臆病な偽善者の自分を恥じた。禁欲は自己懲罰であり、聖なる女性にささげるポトラッチだった。しかし女たちは、無神経で破廉恥な現実主義で、次々と男たちの夢を打ち砕く。 

 変質者の愛はいつも無惨なほどプラトニックだ。

 私はイコンを制作する修道僧のように、「おんな犬」のイメージを自己流の絵に描くことで、密かに自分だけの神話を作っていった。紡ぎ出された神話は傷つきやすい魂を繭のように包み込み、凶暴な正常人から私を守ってくれるかもしれなかった。 

 良識主義と経済原則の網が隅々まではりめぐらされた日常で人は皆、孤独な仮面舞踏を踊っている。せめて性的妄想の薄闇の中でだけは、自由にタブーを犯したい。そこだけが闇の声を聞いてしまった者たちの、最後の砦だったはずなのだ。 

 しかしマスメディアの侵略が、我々のイメージを風俗やファッションに風化させるのは、時間の問題だ。「おんな犬」のイメージは私の内で、いつまでその衝撃力を保ち続けられるだろうか。


初出:STUDIO VOICE vol.195 『カルトの王』



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1 件のコメント:

  1. 可能なら、「相撲部屋の少女」の再録を希望します。

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