あの頃のこと

 
責め絵との最初の出会いは、雑誌のカラー口絵だった。

それは小学生だった僕が入院していた小児科病棟に、付添婦が置き忘れていった貸本の講談雑誌に掲載されていた。

侍のチャンバラの絵を捜して頁をめくっていると、突然全裸の武家娘が街道の松の枝から荒縄で吊り下げられている絵が表れた。  痛々しく縛り上げられた後手や、豊かに膨らんだお尻が艶かしく強調された背面ポーズが見事に決まっている。日本髪を崩し、虚しく中を蹴る小さな足先が哀れだった。

僕の心臓を稲妻のような物が貫いた。

あわてて本を閉じたが、すでに絵姿はしっかり脳裏に焼き付いてしまっていた。雑誌はすぐに、病室周りの貸本屋が回収していき、僕は知る術もない以後のストーリーを病室のベッドで、いつまでも想像し続けた。  あの娘は何故、裸で木から吊されていたのだろうか。その後無事に助け出されたのだろうか。今思い返してみても、あの結末は気にかかる。

性行為を目的としない子供のリビドーは、多かれ少なかれ異常性に傾く。そうでなければ何故、僕達はあんなにも悪漢探偵ごっこに熱中したのだろう。

紙芝居の冒険物語や継子いじめ、夕暮れに出没する人さらいの噂、年上の女の子から誘われるお医者様ごっこ等、少年の日々はいつも煌めくような刺激に満ちていた。僕達のまわりには親や先生によって決められた、あらゆる種類の禁止条項があり、その柵の向こう側には今まで体験したこともない楽しい世界が拡がっているらしかった。そこには「少年王者」のスイ子さんの様な目をした囚われの美少女が、いつの日にか僕に助け出されるのを待ち続けているはずだった。

しかし雑誌の縛り絵に衝撃を受けた日から、僕の中で何かが変わった。

相変わらず棒切れを手に空地や路地を走り廻り、敵側の役の子を縛ったり、逆に捕らえられたりしていても、僕はもう以前のような無邪気な少年ではなかった。そんな行為のうらに自分の不純な性衝動を意識し、又その事を他人から隠す為にわざと子供っぽく振る舞う術を身につけていった。

僕は十才で既に大人だったのだ。

女の裸や縛り絵などに興味を持つ者は、変態と呼ばれているらしく、このおぞましい響きは犯罪者とか社会の落伍者といわれる以上に絶望的な蔑称らしかった。人間には強い正義の味方と、最後には必ず敗れる悪人の二種類があり、変態はこの悪人の中でも最下位の者だった。これからの長い人生を、みじめな悪人として生きて行かなければならないのかと思うと、僕は本当に暗澹たる気持ちだった。  僕の前途には日陰者の道だけが細く続き、その道の果てには、刑務所か浮浪者の生活しかないようだった。

五年生の時遊びに行った友人の父親の書斎で、表紙に裸女が吊されている絵のついた本を見つけた。質の悪いザラ紙の小説本だ。

友人からこっそり借り出して、むさぼるように読んだ。田村泰次郎の「肉體の門」だった。

体という字が、正字の體となっていたので小学生には読めず、「肉體を売る」とか「春を売る」という言葉の意味がよくわからなかったが、体をはって生きる女達の獣のような気迫に忽ち引き込まれた。町子の剃毛の場面や、ボルネオマヤのリンチのシーンは何度も読み返し、その度に血が騒いだ。

谷崎潤一郎の「痴人の愛」や「少年」を読んだのもその頃だ。初めはSM場面を捜す為だった盗み読みが、いつしか僕に読書の習慣をつけ、文学や絵画への興味を育てたようだ。僕は手近にある本を片っ端から読んでいった。

母は、大人の本ばかり読んでいる息子を不気味がり家中の本を隠して僕を外で遊ばせようとした。僕は読書家の父兄をもつ友人に取り入って、家から次々と本を持ち出させ、親にかくれて読み続けた。

友人の持ち出してくる本には系統も選択基準もないので、小学生としては随分不思議な本も読んでいる。「金色夜叉」や鏡花の「歌行燈」を殆どわけもわからずに読んでいたのだから、母親が不気味がるのも無理はないかもしれない。

何でも読んでいると思いもかけないSM場面にぶつかるもので、「歌行燈」の海女責めの箇所は興奮して今でも覚えているのだから病はかなり重症だったのだろう。自分を変態だと思いこんでいる少年には、太宰の「人間失格」などは我事のよに身につまされた。どう考えても、立派な大人にはなれそうもなかった。

しかしこのまま読書を続けていけば、いつかは変態少年の汚れた心は芸術の力によって浄化され、やがては普通の文学少年に育っていったかもしれない。ところが現実はそううまい具合にはすすまない。中学生になった少年は、通学路の古本屋でついに、「奇譚クラブ」「風俗奇譚」「裏窓」のSM三誌と出会ってしまった。

中学生がこれらの雑誌を手に入れるのは難しいので、僕は専ら立ち読みすることにした。店主の目を盗んでは、一気に一編の小説を読んでしまうのだ。
もともと乏しい集中力と記憶力をその一点のみに向けたので、もう勉強の方にまわす余力などのこってはいない。授業中の僕は抜け殻のようにボーッとして過ごし、毎日のように教室に立たされていた。つまり落ちこぼれだったのだ。

僕の人生は小学生の時の予想通りにすすんでいるようだった。 あの頃のSM三誌は何故、あれ程我々を惹き付けたのかと言えば、それは恐らく編集者と作者と読者との間に在った共犯幻想のせいだったろう。それまで、変質者というのは小説でも映画でも常に、悪役か惨めな三枚目としてしか扱われなかったのに、これらの雑誌は初めて異常性欲者の側に立ってくれた。サド・マゾヒズムを持つ者も人間だと認めてくれたのだ。今日、店頭に並ぶSMビニ本やSM小説が、数多くの責めの描写や緊縛写真を載せていても、編集者や作家がサディストやマゾヒスト達を品性下劣な人非人としかみていなければ、その雑誌は決して読者の心を掴めない。

毎号、肩身狭く生きていただろう全国の読者からの、血を吐くような投稿が誌面を飾っていた。あの雑誌だけが僕たちを笑い者にしたり化け物扱いせずに、真面目に対応してくれた。この中でなら仮面を脱いで自己表現できるかもしれない。そう思った孤独な読者達が、次々と投稿していたのだろう。
そんな濃密な熱気に、僕もやがて取り込まれていった。以後十余年、僕はこの雑誌とともに生きてきたのだ。
その頃よく古本屋に一晩閉じこめられる夢を見た。店主も居ず、平台には一面にSM雑誌が並んでいる。白表紙以前の分厚い奇クがある。分譲写真の束もある。さあ、他人の目を気にせずゆっくり楽しもう。しかし大抵、なかを読まないうちに目がさめた。

どうせ夢をみるなら、雑誌の夢でなく実際の裸女でも出てきてくれれば良さそうに思うのだが、不思議にそんな夢をみなかった。当時の僕のSM願望とは、SM本をよむ願望であって実行に向かう質のものではなかった。
初めて夢精をした時みた性夢は、前夜美術書でみたインドのアジャンタ窟の壁画の菩薩像だった。この絵は後年、インドに旅行した時実物を観ることが出来た。最初の女と再会したように懐かしかった。

高校生の頃、初めて下手なイラストを「奇譚クラブ」に送ってみた。折り返し編集長から手紙が届いた。作品一点一点の批評と、丁寧な励ましの文章が書かれていた。大人から手紙をもらうのは初めての経験だった。僕はのぼせ上がり、受験勉強もせずにせっせと自己流の絵を描き続けた。

編集長からの手紙は作品を送るたびに必ず届いた。先方は僕を大人だと思いこんでいるようだった。僕は親に知られるのを恐れて、事情があるのでそちらからは連絡しないでくださいと書き送ったりした。


それらの絵は後年、「僕のイメージ画集」という題で誌上に載り始めるのだが、デッサン力のなさは眼をおおうばかり、あまりの下手さに顔から火がでるようだった。
室井亜砂二 gazette vol.1より



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